音ゲーに生かされていたという話

 最近、自粛期間によって家にいる時間が増え、前にも増して何故生きているのかという問に向き合う時間が増えたと思う。この世に生を受けたからには、何故わざわざ生きるのかという理由が知りたくて仕方がない。「何故生きているのですか?」と聞かれてその理由を即答できる人などほとんどいないのに、何故皆んな疑いもなく毎日生きているのか不思議でならない。「死ぬのが怖いから」というのもたしかに理由の一つだが、それは結局「何故死ぬのが怖いのか」という疑問をぶつければ、これが「何故生きるのか」という問と大差ないような気がする。ここでは、僕が生きてきた高々19年で僕の考えてきた「生きる理由」について話したいと思う。

 まず、僕の思う「生」は2種類なので、これを先に提示しておきたい。

 

1、ヒトとしての「生」

2、「自分」という固有名詞としての「生」

 

 1は、動物としてのヒト全体としての「生」で、例えば論文が次から次へと積み重なっていくように、自分の人生も影響を与えられ、そして与える、いわば時空を超えたヒトという樹の一部のようなものである。社会に存在する以上人と関わることは不可避なので、そう言う意味で自分の人生は最低限のものが保証されていると思う。今日も生きていて偉い!

 しかし、生きる理由として1はあまりにも壮大で、壮大さに対して自分の人生があまりにも小さすぎると思う。自分なんかいなくても、、とまでは思わないが、実感はかなり沸きにくいし、結局のところ自分の人生は主観的なものなのだから、時空を超えた宇宙規模で保障されたところであまり嬉しさを感じられない。人は生きる理由を考えるほど頭がいいにもかかわらず、肝心の解を見つけられるほどではない、そう言ったジレンマの上に「生」を感じているのだろうか。そこで思いついたのが2である。2はつまり、主観を満たすような「生」だと思う。そして、人々が考える「生きる理由」は殆どがこの2に落ち着くものだと思う。結局のところ自分は自分、他人は他人であり、その視野はそう簡単に広がるものではないからである。じゃあこの主観を満たすような「生」の理由はより具体的には何かと言うと、僕はいわゆる「趣味」だと思う。人生は、「趣味に使う時間」と、「趣味に使う時間のための時間」に2分されると思う。こうすれば、やりたくないことにもしっかりと意味を持たせることができると思う。では、趣味とはなんだろうか。僕は「自分のためだけに、理由なく楽しむもの」だと思っている。なんだ、結局生きる意味だった趣味にも理由はないのか、と思うかもしれないが、「生きる理由がない」ことと、「趣味をするのに理由がない」ことは全く違っていて、後者に限って、理由がないことそのものに「生」があると思う。趣味に理由があれば、例えば「社会的地位を得るため」や「生活するため」、「人付き合いのため」みたいな理由が付属してしまうと、趣味そのものが手段に落ちてしまう。手段は、「趣味に使うための時間」だけでよい。つまり、人生を目的と手段に二分したとき、はっきりと「目的」であり続けていてくれるものこそが僕は「趣味」にあたると思う(同じ内容で、これが「趣味」と言う言葉以外で表されることはよくあると思う)。

 ここまでいろいろと語って、じゃあ結局何が言いのかというと、僕にとっての人生の絶対的な目的は「音ゲー」だったんだなぁと思う。最近自粛等で思うように音ゲーができない期間が続き、モチベが下がっていたことに加え、やっていた音ゲーに自分の中でそれなりに区切りがついてしまったことで、以前のような熱量で音ゲーができていなかったことで、(もちろん他の要素もあるが)かなりの活力が失われていて、今までどれだけ音ゲーのために生きていたのかということに気付かされた。浪人期なんて、授業がまだ2コマ残ってるのに早く音ゲーがしたくて仕方なかったのに、最近は家から出ずに課題をやってYouTube見て寝るだけ。ここ半年は本当に、僕は「何もしないため」に、空集合のために日々を生きていて、だからこそ生きる理由に迷っていたのだと気付かされた。狂気的と思われるかもしれないが、僕は音ゲーのために、それだけ熱中できるもののために生きているのだと、今なら言い切れる。もちろんずっと音ゲーをやっていられるとは思わないが、その代わりを探すのは「趣味をする時間のための時間」にすればいいだろう。とりあえず課題さっさと終わらせてゲーセンに行き、今日も僕は荒野を爆走する。